選択肢は無数に存在するといわれる。そして、どの選択肢に進むかで世界は無数に分岐していくとも言われる。並行世界の概念だ。
この並行世界を自由に行き来できたり、統合するということができるとする。悪いことを回避し、より良い方向に持って行こうとする人、真逆に振る舞う人もいるだろう。そういった手段に頼らない人間も出てくるだろう。
自分はどうなのか、と問えば頼らない。良いことも悪いこともわたしの手によって起こされ、わたしの血肉になっている。それを無に返すような振る舞いをわたしは、したくない。
ショップエリアに桜が咲いていた。徐々に咲いていくものだと認識していたが、ショップエリアの桜だけは違うようだ。ある日、突然、桜の花が満開になり、淡い色の雨を降らせている。
不思議な光景だと、買うべきものがあるのを忘れて桜を見上げた。
桜といえば父と母と3人で花見に出かけた記憶がある。私の桜に関する知識はそのとき、二人が教えてくれたものに基づいている。満開の桜がずっと続く道をゆっくり歩きながら、父と母から交互に桜について話を聞いたのだ。
同じ遺伝子を持っているため、ほぼ同時に咲く。船の中ではわからないが大陸であれば、桜の開花する地域が広がっていく様子が見えるだろう。そして、その線を桜前線というのだとも。その桜前線を見てみたい、とわたしは言った。父と母は同時に3人で見よう、と返事をしてくれた。それからというもの、桜を見るたびにそのときのやり取りを思い出していた。
10年前のダークファルス襲撃以来、途絶えていた習慣だったことも一緒に思い出した。父も母も命を奪われ、約束も潰されてしまった。悲しみより、心の大半を失ったような感覚があった。それからの時間には何の意味も持たなかった。持たなかった、と過去形で書けるのは幸いだ。今の私には桜を一緒に見上げたい人たちがいるのだ。
感覚と感性が蘇ると得られるものが増える。
両親の記憶というものがほとんどない。
人生の3分の1は過ごしていたはずだが、記憶らしい記憶がほとんどないのだ。人間は忘れていくことで、生きていけるとも言うが、幸いなものまで忘れてしまうのは不幸だ。
こう考えていることからわかるのは、わたしにとって両親と過ごした期間は幸いだった、ということだ。
先にも書いたが記憶にはほとんどない。それでも、そう確信できるのは幸いだ。自分は不幸だと思えば不幸になる。これは極めて主観的な問題であり、他人がどう思うかは別だ。
エオお姉さんはわたしの生い立ちを知っている。が、だからといって、何かあるわけではない。気遣いは感じるが、他のメンバーとあまり変わらない接し方をしているように感じる。それもまた、わたしが幸いだと感じられる理由だ。
同情されれば、他人がどう思うかは別だ、と構えられなかったに違いない。
ただ、何か動こうと思った際に親が不在なのは都合が悪いと最近、知った。身元を保証する存在が必要なのだ。わたしがどう思っても、社会の仕組み上は身元を保証する人間が求められる。こればかりは、どうしょうもない。
エオお姉さんに遭遇した。
しばらく話したあと、研修生服を引っ張りだして、わたしに見せた。
研修生だった頃の記憶ははっきりと覚えていない。何となく必要なことを覚えて、何となく必要なことをこなして、いつの間にか終わっていた。
昔のことを思い出していると、エオお姉さんは着てみる、と問うてきた。わたしの答えを待たずにエオお姉さんはわたしにその服を着せてきた。こうなってしまうとわたしに止める術はない。
うん、似合ってる、と上機嫌そうにエオお姉さんは言った。わたしの髪と同じ色をした服だ。
ありがとう、と返すとエオお姉さんは笑いながら、記念にあげるよ、と言った。もらえない、と首を横に振るとわたしのではないから、と笑みを強くして続けた。わたしのために買ってきてくれたのだという。何のために、と問うてもニコニコと笑うだけで答えてくれなかった。人の好意を無碍にすることはないとわたしは服を受け取る。
良かった、とエオお姉さんは笑う。受け取ってくれて良かった、の他に何か意味がありそうだがわからなかった。悪いことは考えていないとは思うが。